中国旅行記 その5

〜秋風五丈原。死せる孔明、生ける仲達を走らす〜

中国旅行五日目。
本日は、陝西省宝鶏市蔡家坡にある、諸葛亮孔明がまさに亡くなった地である「五丈原諸葛亮廟」を訪れました。曇りまたは雨と言われていましたが、見事に晴れてくれました!
列車乗車のために603路バスにて西安駅へ。西安は城壁に完璧に囲まれた街ですが、人の出入りが激しい西安駅前周辺のみ、城壁がくり抜かれています。
西安から五丈原諸葛亮廟最寄りの蔡家坡までは、4937列車に乗車しました。なぜこの列車を利用したかなのですが、4937列車は比較的距離の短い宝鶏行きであり、なおかつ西安始発で途中停車駅は蔡家坡なので券が比較的取りやすいからです。写真は4937列車の待合室にて。
本来8時56分発車のハズでしたが、遅れに遅れて9時50分に発車...>< 観光時間が減っちゃったじゃないっすか...。でも「遅れ」に慣れているのか、誰一人文句を言っている中国人はいませんでした。
今回利用したのは硬座車両。英訳すると「Hard Seat」ですが、1時間ちょっと乗車する分には硬さはあまり気になりませんでした。ひょっとしたら、E231系より柔らかいかもしれません(!?) 硬座は一般的な中国人がよく使う車両であるためにマジキチとよく言われていますが、ここで一夜を明かさない限りは問題ないでしょう。客車は140キロ対応車で、列車は快調に駆け抜けていきました。でも、最近の硬座は随分マシになりましたよね。何とテレビまで付いてますから(笑) 
車内で相席になったお二方です。二人は夫婦ではなく、宝鶏の会社で働く同僚なのだとか。写真右の男性の方には「日本語を話さなければ、あなたはまるで中国人のようだ」と言われました(´∀`*)エヘ 中国人に「お前韓国人か?」と言われることは多いのですが、まさか中国人に見られたとは...w 左の女性の方には走行中に、「外(車窓)の風景は、日本のいつの年代の風景に見えますか?」と聞かれたので、「50年前くらい前ですね」と答えました。事実ですが(笑)
西安から西へ130キロ。蔡家坡站、到了〜!!
写真が4937列車の車両です。115系厨の私としては、115系旧新潟色に見えてしまうのですが...。旧新潟色、今では新潟のキハ40系列で見られるのみですよね。
中国的なサービスとして、駅到着時には、全乗務員が乗降口の前に立ってお出迎えしてくれます!
蔡家坡の場所がよく分からないと思うので、グーグルマップを添付しておきます。蔡家坡(地図
蔡家坡駅にて。列車長すぎでしょw w w
中国の列車はは大体15両編成で、しかも新幹線と同じサイズなため圧巻です! 先頭の機関車を撮りに行こうと思っても挫折するほどです。
蔡家坡駅を出て、取りあえず第一目的地の「蔡家坡汽車客運站」へ向かうべく、2路バスに乗りました。一見普通そうに見えるこのバスですが、女性車掌の声がバカデカい! 何と、ここ蔡家坡には「バス停」という文化が存在しないらしく、人を見つけるたびにバスの速度を2キロ程度にまで落とし、女性車掌が

「汽车站〜!!!(チーチャジャ〜ン!!!)」

と、窓を全開にして、ガソリンスタンド店員顔負けの声で叫ぶのです(苦笑) これには大変驚きました。中国の地方ってまだまだこんな感じなんですね...。
やってきたのは、線路の南側にある「蔡家坡汽車客運站」。ここから「陝汽厰」行きのミニバスに乗り換えます。
蔡家坡汽車客運站よりミニバスに乗車。いよいよ五丈原へ!そしてこのバスもですが、当然「バス停」など存在せず、車掌のおばさんが人を見つける度に

「陝汽〜!!! 陝汽〜!!!(シャンチ〜!!! シャンチ〜!!!)」

と叫んでいましたw
写真は蔡家坡汽車客運站から南の五丈原へと向かう際に通った、その名も孔明大道ヽ(・∀・)ノ かっこいい...。長い間の憧れであった孔明最期の地にいよいよ近づいているんだなぁという実感が湧きました。あともう一息!
ミニバスは渭水を渡り、ひたすら南へ。運転手に「諸葛亮廟下車」と伝えておくと、写真の黄色い橋のふもとで降ろされます。ちょうどこの地図の十字路のところです(地図)。奥に見える山、それこそが五丈原です!
橋を渡ってしばらくすると、写真の二股路が姿を現します。ふもとの「五星村」に入ったことの証です。徒歩であれば左へ進みましょう。左へ進んで次の角を右へ曲がると、まっすぐに五丈原へと伸びる階段が見えてきます。逆に右からでもいけますが、山道をぐねぐねしながら進むため、かえって遠回りです。
ちなみにここ、正式住所を「陝西省宝鶏市岐山県五星村」と言います。実は中国では、県より市の方がレベルが上になるのです。日本とは逆で戸惑いますよね(笑)
いよいよ五丈原へと山登り開始です。写真下に見えるのは「諸葛泉」という泉で、この井戸水が戦時中、台地上での水不足を補っていたと言われています。
諸葛亮廟へと登る山道はこんな感じです。くねくねとつづら折りの道が続き、かなりキツかった...>< でも、山の中腹から見えるふもとの五星村の美しさは圧巻でした。そして......
五丈原諸葛亮廟キタ━━(゜∀゜)━━ !!
ここで、五丈原と諸葛亮孔明について解説します。蜀の軍師として劉備に迎え入れられた諸葛亮は234年、10万の兵を率いて第五次北伐を開始。ここ五丈原で渭水を挟んで魏軍の司馬懿と対峙しました。両軍睨み合うこと100日あまり、諸葛亮は、先帝(劉備)の願望である「漢王室の再興」という大業を果たすことなく、無念のうちにここ五丈原で陣没したのです。諸葛亮54歳の秋でした。千年に一人の逸材の死を悼み、その後各地で諸葛亮の廟が建てられました。彼のおくり名が「忠武侯」だったため、それらは「武侯祠」と呼ばれています。五丈原の武侯祠は元代に建てられ、明清代に修復と増築を繰り返し、今に至っています。
館内には真新しい「諸葛亮五次北伐陳列」という展示室が出来ており、ここでは第一次北伐から第五次北伐までの解説がなされていました。第一次北伐と言えば街亭の戦いですよね。自らの才能を過信していた馬謖は、諸葛亮の命令に反して山の上に布陣。その結果、諸葛亮の忠告通りに敵に水を絶たれ、北伐は負け戦からスタートしてしまったんですよね。馬謖...何ともったいないことを...。彼は確かに諸葛亮の後継者と言われるほどの才能を持っていたのですがねぇ。ちなみに「泣いて馬謖を斬る」の故事は、諸葛亮が信頼の厚かった彼を泣く泣く処刑したことに由来しています。
こちらは「天下三分の計」の様子ですね。
天下三分の計とは、天下を魏・呉・蜀に三分しようというものです。「三顧の礼」によって劉備に迎え入れられた諸葛亮。以降、彼は蜀にとって切っても切れない重要な人物となっていくのです。もし劉備が諸葛亮と出会ってなければ、蜀はいったいどうなっていたんでしょうね...。
こちらは諸葛亮廟の中庭にある「八卦亭」という名の建物。上を見上げると...。
諸葛亮が占いに用いた八卦が描かれています。上から時計回りに坎、乾、兌、坤、離、巽、震、艮を表しているそうです。詳しいことは私も分かりません(笑)
さて、いよいよ英雄諸葛亮とご対面の時がやって参りました。
こっ.......これは.........。
ついに私は憧れの諸葛亮様と対面できたのです。ここまで大変だった...でも、会えて本当に嬉しい!
全国にも同様に諸葛亮を祀った廟はたくさんありますが、ここが本家中の本家ですからねぇ。しかも初の三国志遺跡めぐりにしていきなり超一級の三国志スポットを訪れることができたとは...。まさに感無量でした。だって、諸葛亮が陣没なさったまさにその地で、「諸葛亮」と対面できたんですからね! ただ、どうして顔がツタンカーメンのように金色なのだろうか...w
お顔アップです。髭長なのは仕様なんですかねぇ(笑) ただ、最期の時とあって、諸葛亮は不安げな表情。きっと自分の死を悟っておられたのでしょう。彼の死が、三国という一つの時代の終焉をもたらしたわけですから...。今自分が歴史の表舞台に立っているのだと思うと言葉にできない熱い思いが込み上げてきます。
蜀の丞相こと諸葛亮の周りには大勢の臣下が。手前から王平と関興。そこには関羽、張飛、趙雲は既にいません。もちろん劉備も曹操も。関興なんて関羽の息子ですからね...。この頃には既に世代が変わっていました。最期まで忠誠を尽くし孤軍奮闘する諸葛亮を思うと何だか泣けてきます。
感慨に浸りながら外へ。こちらは「諸葛亮衣冠塚」です。諸葛亮の遺体は漢中にありますが、当時彼が着ていた衣服などはこの塚内にあるそうです。こちらはホンモノらしいですよ!
一方こちらには「落星石」が。
明代の小説「三国志演義」では、諸葛亮が陣没した際に流れ星が蜀の陣営に落下し、それを見た魏軍の司馬懿が諸葛亮の死を悟ったといわれています。蜀軍は、諸葛亮の死を受け五丈原を撤退。その最中、あたかも諸葛亮が生きているかのように、死を伏せながら撤退したと言われています。死せる孔明、生ける仲達を走らす
で、写真はその時に落ちた「流れ星」だそうです。まぁ、細かいことには突っ込まないようにしましょうか(笑) ちなみに、五丈原台地の上には、これにちなんだ「落星村」という村があるそうです。
廟内には、かの有名な南宋の英雄こと岳飛が刻んだ「前出師の表」が!
前出師の表とは、北伐開始時(227年春)、出陣に当たり、諸葛亮が蜀の二代皇帝劉禅に読み上げた、いわゆる「宣戦布告」のようなものです。諸葛亮は文中で、劉禅に誠心誠意仕えることや、先帝劉備のと出会いから今日までの回想などを読み上げたのです。その内容にはその場にいた全員が涙をするほどだったと言われています。その前出師の表を諸葛亮最期の地で見られただけでも十分すごいのに、しかも本物の岳飛が書いたというオマケつき(*´∀`)/ 岳飛は中国人の間で、民族的英雄中の英雄として尊敬されているそうです!
せっかくなので、諸葛亮も踏んだであろう五丈原の大地を歩いてみることに。菜の花が非常に美しいのですが...ゴミ...しかもお墓の上に...(笑) 周辺ははっきり言ってゴミだらけでした。三国志のロマンが...>< 驚いたことに、中国って土葬なんですよね。今まで上海や西安などの都市部しか行ったことがなかったので、中国のお墓は始めて見ました。
台地上より、司馬懿が対峙した対岸の渭水方面を望む。これを見ると、諸葛亮がここに布陣した理由が分かる気がします。左下に見えているのは、ミニバスを降りたふもとの五星村です。
諸葛亮廟周辺には「五丈原村」と言う村が広がっています。「村」というのは、中国の行政区分上最小単位なだけに、そこには今まで想像していたものとは違う「本当の中国」の姿が。農村に入ったのも初めてなので、見る物すべてに驚かされました。家畜用の干し草が山積みです。
ヤw w w ギw w w
辺り一面、荒涼とした畑が広がっていました。本当に「どこまで続くんだろう?」と思ってしまうほど。中国は果てしなく大きいです。左の一本だけ生えた木が良いアクセントになっていますね。恐らく五丈原諸葛亮廟やこんなド田舎を一人で訪れた高校生は私が初めてでしょう。正直、旅中は生きて帰れるか不安でいっぱいでしたが(笑)
本当に人っ子一人居ない広大な大地......そこに日本人の私だけ......。

五丈原は今日も美しい青空でした。五丈原諸葛亮廟に限らず、中国全土の三国志スポットって、どれも都市部からは簡単に行くことのできない農村部にあることが多いんですよね。今は何もない辺鄙な所かもしれませんが、その地で確かに歴史的な出来事が繰り広げられていたのです。諸葛亮廟も西安から130キロほどなので、西安から直通観光バスでも出せばもっと多くの人が訪れに来ることでしょう。しかし、観光地化されればそれだけ五丈原本来の持つ魅力や素朴さが薄れてしまいます。多少危ない目に遭ってでも鉄道やローカルバスを何本も乗り継いで苦心の上で辿り着いた方が、得られる達成感は大きいものです。

今日の観光はこれだけ。丸一日を五丈原に費やしたのでした。
帰りは先述の橋のたもとから蔡家坡汽車客運站までミニバスに乗車。そこから蔡家坡駅までは3路バスを利用。このミニバス、待っても待っても来なかったんですよ...。仕方がないので道を暇つぶしに歩いていたらやっと来たという(笑)
駅で、帰路のK132列車(硬座)の切符を購入。蔡家坡から西安まで乗ることに。ただしこの列車は途中咸陽に停車するものでした。
K132列車は蘭州始発ということもあってか、30分ほど遅れて到着しました。中国鉄道安定の遅延☆
車内では写真の方々と相席に。真ん中の女性は西安工芸大学の学生さんだそうで、自宅のある宝鶏から大学のある西安まで向かうとのこと。彼女とも私の大好きな清王朝トークで盛り上がりましたヾ(≧∇≦)〃 私が「康熙帝が大好きです!」と言うと、「康熙・雍正・乾隆の時代は『康乾盛世』と言われているのよ〜」との返答。また、ヌルハチから宣統帝まで、清朝皇帝の名を全部列挙したら大変喜んでくださいました。最大の版図を広げた清朝、彼らにとっては「誇りの文化」なのでしょう。そんな彼女ですが、なんと「秦始皇帝陵は咸陽にある」と爆弾発言! 私が「兵馬俑の隣ですよ! あなた中国人じゃないんですか〜(ゲス顔」と言うと、顔を真っ赤にして照れてましたが(爆) その他、目の前の男性とは、満州事変についてガチ議論してきました(ぉ あと、硬座に外国人が乗ることは珍しいようで、コミニュケーションの集中攻撃を受けましたが...w
ひたすら話してたら西安駅着。既に日が暮れていたのでホテルに直帰しました。
せっかく世界中(特に欧米)から観光客が集まるホテルに泊まっているならもっと積極的に話しかけようということで、アメリカ人っぽい人に思い切って声を掛けてみたのですが、またもやドイツ人\(^o^)/ このホテルにはどうもドイツ人が多いようです。彼らに日本人ですと言うと、「日本を1日旅行する金があれば中国に1週間居れるよ〜」と言われました。日本の物価の高さは半端じゃないですよね。例えば西安の地下鉄は6駅まで2元(約30円)、路線バスは1元という世界ですからねぇ...。

こうして、西安観光のハイライト、「五丈原諸葛亮廟訪問ミッション」を無事達成することができたのでした!

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